今月のメッセージ
2007年5月

『愛とは』(2007年3月 浪速少年院での講演から抜粋)


昔、ソロモンという偉大な王のもとに、二人の女が連れてこられました。その二人の女たちは、特別 な事情のもと、同じ時期に出産をし、同じ屋根の下で暮らしていました。

一人の女性の子どもは過って死んでしまいました。そして、もう一人の女性の生きている赤子を夜の間にそっと自分の寝床に寝かせ、死んだ子どもを相手の女性の側で寝かせ交換してしまいました。

そして朝起きたとき、一人は「私の子どもが死んだ子どもと取り替えられた」と言い、もう一人は「これが私の子どもで、あなたの子どもは死んだ赤ん坊だ」と言い張りました。当時はDNA鑑定もなく、裁判所に行ってもお互いが自分の子だと主張するばかりです。生まれたばかりで顔もはっきりしていないため、証拠もなく、どの裁判官も裁きようがありませんでした。

このように裁きようのないとき、問題は何によって解決されるのでしょうか? それは愛です。ソロモン王は二人の女と家臣たちの前でこう言いました。「どっちも自分の子どもだと言い張る。よし、剣を持て! 生きている子どもを二つに切り、半分をこちらに、半分をあちらに分けろ」

一人の女は胸が熱くたぎり、言いました。「その子をあの女にあげてください。どうかその子を殺さないでください」もう一人の女はこう言いました。「ではいっそのこと、私のにもあの女のにもしないでください」ソロモン王はそれで悟りました。そして言いました。「その子どもをはじめに発言した女に返しなさい。その子に剣をかけてはならない。彼女がその子の母だ!」

愛……この物語には、愛の本質が何であるかが描かれています。自分のものにならなくても、自分を犠牲にしても生かしたい。それが愛ではないでしょうか?

二葉亭四迷という明治時代の有名な作家は、LOVEという英語をなんと訳したでしょうか? 「あなたのために命を捨てます」と訳しました。まことに愛とは、相手のために一番大切なものをあげてしまうことではないでしょうか。

今日、この究極の愛を表した一人の方、イエス・キリストについてお話ししたいと思います。彼は罪のない神の子でありながら、十字架にかかりました。私には罪がないと言って逃げることもできたのに、彼は命を捨てました。それは、彼が十字架にかかることを通 してすべての人を救うという約束が実現されるためでした。そしてその十字架の死は、今も後もこの世に生きるすべての人間の罪を赦すためのものであるというのです。

イエスに従うものは何千人もいました。武力で十字架を回避させることもできた。神の子という力もあった。なのに、彼はその力を持ちながら、あえて無抵抗だった。そこに本当の愛、本当の強さがあるのではないでしょうか?

強さとは弱さであり、強さは優しさや愛から生まれるのです。北斗の拳の第1巻で、ケンは牢屋に閉じ込められました。門番はリンという少女でした。ケンはその牢屋を力で開けることもできたし、逃げるのを邪魔する奴は北斗神拳で「アタぁ」とやっつける力もありました。なのになぜ逃げなかったのでしょうか? それはケンが逃げてしまえば、門番のリンが責任を問われるからでした。愛や強さとは人のために弱くなれたり、損をしたり、犠牲を払えることです。

しかし、私たちはちょっと人のために損をしたら、「俺のしたことわかってや! 俺のした犠牲を知ってや!」と見返りを求めたり、人から評価されることを求めてしまう、そんな部分を持っていないでしょうか?

私は宗教としてキリスト教を信じたのでなく、イエス・キリストという方を個人的に信じました。その方の死を通 じて、私は愛を知りました。

人間は罪を犯したり、あるいは法に触れなくても家族を裏切ったり、人の欠陥を馬鹿にしたり、傷つけ合うために生きているのではありません。私たちは愛し合うために生きているのです。愛こそが最も大切であるのに、自分中心の思いのゆえにその愛を見失っているのです。

どうか、あなたの人生を無駄にしないでください。自分のために生きていくのではなく、まわりのこと、家族のことを考えてください。一人ひとりは愛されているということをどうか忘れないでください。もしこの中で、自分は愛されているかわからないという方に言いたい。あなたはイエス・キリストに愛されている。

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